個人の裁量は共有できる

こんにちは。です。
今回は、個人の裁量は共有できる、と思ったことについて書いていきたいと思います。なぜ、そんなこと書こうと思ったかというと、わたしたちGFCには、GFCクレドというものがございまして、その中に『気づける人になります』という項目があるんですね。

その内容をご紹介すると、

『仕事には、必ず相手がいます。気持ち良く仕事するには、相手への気配りが大切です。誰に対してもしっかりと向かい合って、相手のことを考えて行動します。まず「あなた」のことを考え、何に困っているのか、何をして欲しいのか、気づくところからはじめます。「あなた」がいて、私がいます。』

とあります。

もう何年もこのGFCクレドと向き合ってきていて、内容には賛同していますし、相手のことを考えて行動したいとも感じています。ただ、『気づける人になります』というところを個人の裁量に任せていると、多岐に渡る判断材料を効果的にピックアップするのは、なかなか難儀なことだとも思い続けているわけです。そして、気づかなかったことをあからさまでなくとも、責めるような風潮があると感じています。

仕事という枠の中だけで考えた場合、業務のながれを詳細に言語化することで、『個人の裁量』は、もはや『個人の裁量』ではなくなります。この言語化を怠って誰かが何かに気づけなかったとしたら、それはなにかを言語化しなかったことが原因であり、気づけなかった誰かが気に病むことではないのだと共通認識できれば、個人の裁量の言語化、共有化はもっと進んでいくのではないかと思うわけです。

「そこは気づけるかどうかだから、次にできれば良い」というものは存在しないとさえ感じています。次にできるべきことには、それを実現する為のながれがあるわけです。そのながれをしっかりと言語化してあることで、そのながれをトレースすることで気づき、実現できるようになります。あくまでも、仕事という枠の中だけで考えた場合、ですが。

わたし自身は、なんとなくで物事を進めることが苦手で、ながれや判断基準をイチイチ明確にするクセがあります。次回、同じような場面に直面した際に、また頭を使って判断して実現するより、トレースして実現した方がエネルギー効率も良く、時間効率も良く、対応する人物が同一である必要すらなくなります。そんなことは、誰もが認識していると思いますか?ところが、何故だか「気づき」や「お気持ち」といった曖昧な表現をする人は後を絶たないわけです。誰かが何かに気づけなかったとしたら、それは言語化しなかったことが原因であることを共通認識としてもらいたいと切に願います。

GFCクレドはGFCコーポレートサイトでご紹介していますので、ご興味を持ってくださった方は、こちらからご覧ください。

GFCのホームページはこちら

GFCへのお問い合わせはこちら

コメントを書く