【思い立ったが吉日】人に教えると、自分も教わる。だから成長する。

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今回の【思い立ったが吉日】は、人を教えることで自分も教わることがあり、それが自らの成長にもつながる、という話をしたいと思います。

4月になって、街中には真新しいスーツがまだ板についていないという印象の若い人たちが溢れています。いわゆるリクルートスーツのまま、社会人になって通勤しているということなのでしょうが、そんな若い人たちを教えるという機会も、私のようにいい歳になってくると(すでにアラフィフと言われるような年齢になっております)、自然と増えてくるという次第です。

とはいえ、20代後半から30代のうちに若い人を教える機会がなかったかというと、決してそうでもありません。しかしながら、人を教えるにあたってその対象者とどのように向き合っているか、を今と昔とを比べてみると、だいぶ違ってきているなあ、と感じてもいます。振り返ってみれば、自分が20代後半から30代だった頃は、対象の人たちとの年齢が近かったからなのか、ずいぶんと乱暴な教え方をしていたような気がします。

「乱暴」というのはどういうことかというと、きちんとしたアウトプットをすることなく、「俺の背中を見て覚えろ」ということだけを言っていたようなイメージでしょうか。自分がやっているようなことを、同じようにやってみろ、というような教え方をしていたように思いますが、今となっては「それじゃあ経験の浅い人には伝わらないよなあ」と反省しきりになってしまいます。

今の若い人たちは、ともすれば自分の息子や娘と言ってもおかしくはない年齢層になります。あまりそういう目線を意識しているわけではありませんが、それだけ年齢が離れていれば、自分の経験値が彼らよりも20年近く(あるいは20年以上!)も違うということになるわけで、それは自分が経験してきたことを知らないのは当たり前、という気持ちにもなれます。そうなると、いかに自分が経験してきたことや知っていることを言語化して、わかりやすく伝えてあげることが不可欠か、ということにも気がつきます。まあもう少し前にそれぐらい気づけ、というツッコミも自分で自分に入れたくもなりますが、やはりある程度の年齢にならないと、上から目線ではありませんが、そこまで差があるんだよ、と認識できないものなのかもしれません。だから20代後半から30代の頃の自分では想像もできないくらい、若い人たちに噛み砕いて物事を説明したり、わかりやすいように話をしたり、ということを意識してやっている自分がいることに、自分で驚いてしまいます。

それもまた成長の一つ、と自分としては解釈しています。成長の速度は遅いかもしれませんが、気づけたのだから意味がある、と自分を慰めてもいます(苦笑)。言ってみれば、若い人を教えながら、自分も教わっている、ということ。人間、死ぬまで勉強だ、というのはこういうことか、と驚きを感じながら、今よりもっとわかりやすく、若い人たちの成長を促せるようにがんばっていこうと決意を新たにしているところです。

私たちGFCも会社組織として成長を続けていけるよう、教えることで教わることがある、ということを意識しながら日々の業務に臨んでいきたい、と思う今日この頃です。ここでいう成長は、業績の成長というよりも、組織の成熟という意味合いの方が強いような気はしますが。

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