【思い立ったが吉日】高校時代の青い思い出。その2

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今回の【思い立ったが吉日】は前回に引き続き、高校時代の青い思い出を語ろうと思います。

前回の記事でも少々触れましたが、私が通っていた高校というのは偏差値が公立高校の中でも後ろから数えた方が早いくらいに低く、校則もゆるくて自由過ぎる学校だった次第です。制服も「着用するのが望ましい」としか校則には書いておらず、みんな思い思いの私服で通っていましたが、私が所属していた「ロック部」の先輩のようにまるでヘヴィメタルバンドのメンバーのような激しいスタイルで通う人も少なくありませんでした。

ソフトモヒカン、なんて言葉は最近でもありますが、そんな「ソフト」なんてもんじゃないモヒカンの人もいました。正義のヒーローが頭から飛ばす武器のようなモヒカンスタイルで、しかもその髪色が緑だった、というのが鮮明な記憶として残っています。しかもそれ、後輩だったんですよね。話によるとその後輩は、親御さんがカタギの人ではないと聞いていて、私と同じ「ロック部」に所属していたのですが、私の演奏を聞いて「先輩!うまいっすね!」と声をかけられ、ほめられたのは嬉しいものの内心ビビリまくっていた、という思い出があります。

一つ、言い訳のように言っておきたいのですが、私はその高校を志望して入学したわけではありません。当時、私の住んでいたあたりでは「学区制」というのが敷かれており、いくつかの行政区で一つの学区と定められていて、その学区内にある高校を二つのグループに分け、志望する高校を万が一不合格だった場合、グループ内のどこかの高校に入れる、という救済措置制度がありました。私はその高校のあったグループのランク的に一番上の高校を受験したのですが、落ちてしまい、まさか一番下にランクされる高校になるとは思ってもいなかったのですが、そうなってしまった、という経緯でその自由過ぎるファンキーな高校に入学することになった、という次第です。

そんなわけで入学した高校でしたが、当時の時代背景はいわゆる「校内暴力」がひと段落した頃で、生徒たちの間にはどちらかというと「しらけ」ムードが漂っている感じでした。どこかこの高校に入ったことで、自分たちは「バカだ」というレッテルを貼られちゃってるじゃん、もうしょうがないじゃん、みたいな空気感がありました。

しかしながら高校時代というのは、そうでなくても血気盛んな時代です。たとえば校則などが厳しければ、それに反発して窓ガラスを割ったり、盗んだバイクで走り出したりと、聞いたことのあるような歌の歌詞のような行動を取りがちな時代です。ところが私の通っていた高校は、ゆるゆるな校則で抑圧されるものが何もない。ゆえに、そんなエネルギーの行き場がなくて、わけのわからない行動に出てしまう人がたくさんいました。

私が自分の教室に置いておいた折りたたみ傘が、別の教室での授業から帰ってきたらいきなり机の上で傘が開いた状態で置いてあったとか。「何のために?」と疑問に思いながら、あまりの不条理さに笑ってしまいました。さらには廊下をたとえばスケボーとかで走るならなんかカッコよく見せたいのかなと思うのですが、自転車で走るヤツがいたりとか。あげくには4階建ての校舎にある全ての男子トイレの男子用小便器が、かかと落としでもしたのか、全部床に落ちていたとか。この後、全校集会が催され、教務主任の先生が涙ながらに「一つのトイレにかかる修理費は、1000万円になるんです!」と生徒たちに訴えてきたのが、それはごもっともな話だと思いつつも、これまた不条理すぎると内心で笑ってしまっていたのを鮮明に記憶しています。

そんなむちゃくちゃな高校に、最初は私も「なんでこんなところに来ちゃったんだろう」という気持ちでいました。しかし3年間通う間に愛着がわいてきて、生徒会の役員選挙に立候補し、全校生徒の前で「トイレを壊す元気があるなら、それをわれわれにぶつけて下さい」なんてカッコつけた演説をぶち上げ、役員に当選したなんてこともありました。たぶん、こういう不条理極まりない環境とも言える学校にいる中で、だからダメだと諦めることなく、何か行動を起こすことでちょっとでも何かが変わるかもしれない、と私は思っていたのではないか、と振り返ります。

私たちGFCも、たとえどんな難しい課題に直面したとしても、決して諦めることなく、どこかに活路が見出せるのではないか、とアプローチし続ける集団であり続けたい、と思っています。そんな思いを叶えるために、高校時代の青い思い出が少なからず役立っているような気がしています。

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