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昨年、2015年は「戦後70年」とたくさん語られた年だったと思います。年は明けて、2016年。「戦後71年」はキリが悪いように思えますが、だからこそ今回の【思い立ったが吉日】カテゴリーでは、戦後25年目に生まれた私が体験した「戦後」についてご紹介したいと思います。
私の生まれは、名古屋です。中学校入学のタイミングで、父親の仕事の都合で母親とともに東京へ引っ越してきました。その母親は1928(昭和3)年生まれで、ずっと名古屋を中心とした東海地方で生活してきた人。60年近く暮らした「地元」を離れ、初めての東京暮らしを体験したことになります。
そんな環境は、私にとっては「名古屋生まれの人」というアイデンティティーを今になっても忘れずにいられる状況を生み出したように思います。中学校入学から東京にいるので、すでにこちらでの生活の方がすっかり長くなってしまったわけですが、東京で暮らしながら名古屋的な食生活を大人になるまで続けられたのは、母親のつくる料理が「名古屋めし」だったからだと思います。だから未だにお味噌汁は赤だしがデフォルトですし、味噌カツや味噌煮込みうどんは変わらず私のソウルフードです。
若干、話題が逸れましたが。
そんな母親がある時、「名古屋に行きたい」と言い出したことがあります。あれは今から20年前、ちょうど「戦後50年」になる年のことでした。「戦争の時に住んでいたあたりを訪ねてみたい」とのこと。母親は終戦当時、17歳。その頃、名古屋駅からほど近いエリアに住んでいて、空襲で焼け出された三重の松坂に疎開していた、という話を聞いたことがありました。60代も半ばを過ぎた母親は、今のうちに行っておかないともう行くことがないかもしれない、と考えたのかもしれません。
私は母親を連れ、一路名古屋へ向かいました。名古屋駅に降り立ち、ホテルへのチェックインを済ませ、その足で母親の言う「戦争の時に住んでいたあたり」へ行ってみようとタクシーへ乗り込みました。
母親の記憶をたどりながら、タクシーの運転手さんに古い地名を告げ、そちらへ向かっていきました。すると母親が「ああ、このへんだわ、この道をまっすぐ行くと、突きあたりにお豆腐屋さんがあるんだわ」と言います。するとタクシーのフロントガラスの真正面に、確かにお豆腐屋さんがありました。私はその時点で、鳥肌が立つ感覚を覚えました。母親が語っていた戦争体験のイメージに、次第に色がついてきた思いがしたからです。
母親が住んでいたというエリアは「だいたいこの辺だろう」ということでタクシーを降り、あたりをうろついてみることにしました。当然ながらその当時ですでに50年以上の歳月が過ぎているわけですから、母親も記憶が断片的です。それに空襲にあっていたという話ですから、当時は焼け野原になってしまっていたことでしょう。あたりの景色は、当時とは全く異なるものになっていました。
しばらくして、自転車を押すご年配の女性から声をかけられました。「さっきからこの辺を歩いておられますけど、何かお探しですか?」と。すると母親は、かつて自分がこの辺に住んでいたことや、仲良くしていた友人の名前などをその女性に話しました。
「ああ、私、そのお友だちの家に嫁いできた者です」
なんという偶然でしょう。またもや私は、鳥肌が立ちました。その女性は私たちを案内し、ご自宅の方へ連れていってくださいました。そこでお会いした女性のご主人は、母親の言っていた友人その人でした。さらには「おたくの向かいに●●さんってお住まいでしたよね?」と母親が言うと、まだその●●さんは向かいにいる、とのこと。訪ねていってみると、その●●さんが現れ、「せっちゃんかね!」と私の母親(節子と言いました)のニックネームを呼んできました。二人が懐かしそうに握手を交わす様子を、私は体をブルブルと震わせながら見ていたのをよく覚えています。母親の昔話が、鮮明なカラー映像になった思いでした。
追体験という言葉がありますが、これはとても大切なものだと私は感じています。人の話を聞いて、それをあたかも自分の体験のように感じること。そういう想像力こそが、人を思いやる気持ちにつながり、ひいてはGFCのサービスをお客様本位に昇華する原動力になるのでは、と思うのです。
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